光寿堂 kojudo

佐野明弘さんの本の注文承ります

歎異抄 第六条

六 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

歎異抄 第五条

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々

歎異抄 第四条

四 、慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。

聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。

しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。

浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。

しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈大悲心にてそうろうべきと云々

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歎異抄 第三条

三 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

 

歎異抄 第二条

二条は長いので、(けれどもとても身近なので)自己判断で改行しました

二、 おのおの十余か国のさかいをこえて、

身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、

ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、

また法文等をもしりたるらんと、

こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。

もししからば、

南都北嶺にも、

ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、

かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、

よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、

また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。

総じてもって存知せざるなり。

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、

念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、

すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。

いずれの行もおよびがたき身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし。

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。

仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。

善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。

法然のおおせまことならば、

親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。

このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

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歎異抄 第一条

歎異抄第一条は有名でがーっ、っと空暗記だけして済ませがちなので、自己判断で改行します

一、弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、

往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、

すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。

ただ信心を要とすとしるべし。

そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、

念仏にまさるべき善なきゆえに。

悪をもおそるべからず、

弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々